About Family
私の家族について
私、「林由未」を形づくる上で、大切なバックグラウンドとなるのは、自らの家族です。
1979年神奈川県横浜市在住、林家の次女として生をうけました。
孫煩悩で、玩具や人形、お面、人形の家などを孫達のために製作し、本当に手先が器用だった亡き祖父。
祖父の作った玩具で遊んでいた子供時代。
遊ぶ事ももちろん大好きでしたが、祖父が人形達を作っている過程を見るのが大好きでした。祖父は割りばしと木屑を使って作っていたのですが、それらが祖父の手によって、全く別の新しい命が宿った人形やお面に生まれ変わる瞬間が、まるで魔法のように感じていたのです。「物を作ること」に憧れをもったことが、今の現在の職業に大きく影響していると思います。
いつも、優しく見守り、応援してくれた亡き祖母。
両親が共働きだった林家では、子供時代は祖母が沢山面倒を見てくれました。
子供の頃から、描いた絵や、見様見真似で作った造形物を、家族に見せると、一番喜んでくれたのは祖母でした。そういった祖母の「笑顔」は、いつか、きっと「作家」になりたい、といった曖昧な夢を大きく後押ししてくれました。
独自の哲学を持ち、地理・歴史・宗教などの知識が詳しく、74歳となる現在でも、チェコ語・中国語・韓国語の3ヶ国語を精力的に学ぶ、お茶目な父。
女系一家の中で、父の発言力は、かなり薄いものでしたが、外では、コミュニケーション能力の高さをよく発揮してくれます。
2010年に、私がチェコ人の旦那(ペトル)と結婚した際も、英語を話せない義母を初めとする旦那の家族たちのために、チェコ語を勉強し始めました。68歳の時は、単身チェコに来て、1か月サマースクールに通い、若い子達の中でチェコ語を勉強し「ヒーヒー」言っていましたが、最後には健闘賞的な賞を頂き、表彰されていました。
授業のない日に、父と街中を歩いていた際、同級生のアメリカ人の女の子達に偶然道端で会い、「Hiro~~!!」とハグされていた父の姿を見て、『父、凄いなあ…!!』と感動したものでした。
ブランド品のスカーフやハンカチ等のデザイナーを務め、現在でも的確で厳しくも有難いアドバイスをしてくれる叔母。
祖父と共に、叔母の仕事をしている姿は、子供の頃より憧れでした。
仕事の早い叔母。特に、配色作業をしている時の叔母は、もの凄く早く「どうやっているの?」と聞いた時、「色が呼んでいるから」と。かっこいいのです。
子供の頃から、いいデザインを沢山見せてくれました。「仕事をする女性がかっこいい!」と自然に思うようになったのは、叔母の背中を見ていたからだと思います。そんな頼りになる叔母。いつも、配色から、最終仕上げの段階など、迷った時は、すぐに叔母の意見を聞いています。
4歳年上で、幼い頃から絶え間ない努力で、成績が優秀だった姉。
そんじょそこらの美大生では敵わないぐらい絵も本当に上手でした。
私自身の性格・自我を形成する上で、最初の一番の大きな影響は、4歳差という子供の頃ではなかなか追いつけない、勝ち目がない「姉」の存在が大きかったと思います。
幼い頃の姉の記憶は、とにかく机に向かっている後ろ姿でした。勉強をしているか、本を読んでいるか、時々絵・漫画を描いているといった感じで。完全にインドアタイプでした。
何事も真面目に頑張る人だったので、物心ついた頃には、すぐに『あのようには、なれないな』と早々に悟る切っ掛けになりました。なので、姉が得意とする学業や読書領域には、極力近づかないよう最低限のエネルギーで乗り切る。あとは、自分の好きなことのみ本気で頑張るといった性格になっていったのだと思います。
姉の小学校の夏休みの自由課題は、絵入りの自作童話や旅行記だったのですが、それが本当に面白く(仕掛け本になっていたりして)、当時、文字だけの本が大嫌いだった私の大好きな読み物でした。
文章と絵で自分自身の世界観を表現できていた姉。
勉強ができる事に対しての憧れは特になかったのですが、この点においては激しく羨ましいと思っていたのを覚えています。なので、姉の得意分野を全力で避けていた私も、「絵」だけは引けずにいたのでした。「姉より面白いことをやってやる!」と、ガムシャラにアイデアを出しては対抗意識を燃やしていましたが、全く相手にはなっておらず、結局のところ姉のやっている事を真似ている子供時代でした。
そして、こうした家族から甘やかされて育った私を、唯一厳しく育ててくれた母。
今年(亥年)、年女の母。干支通りの性格で「猪突猛進」。
曲がったことが嫌いで、感情的で、厳しく頑固な母とは、子供の頃からよく衝突しました。なんでも真面目で一生懸命な姉と比べると、言う事をほとんど聞かない、自分のやりたい事だけ頑張るスタンスを持っていた私は、母の叱責するチャンスは多々ありました。
人生の中で幾度となくあった大事な決断の際には、いつも大喧嘩でした。お互いに「これ!」といったら譲らない性格も、衝突の原因だったのかもしれません。就職の道を選ばず作家という職業を選択した際は、とにかく、母に認めてもらう事が最初の「試練」でした。
揺るぎない気持ちで制作に取り組んできましたが、駆け出しの頃は大きく悩む時期もありました。本当に朝から朝まで、1日中引きこもって製作をしているのにも関わらず、稼ぎが殆どなかったからです。そのような時、弱気になっていた自分を叱咤激励してくれたのも母でした。
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、振り返れば、幼少期の私の性格と現在とほとんど変わっていないのだなと感じます。そして、その幼少期の性格を形成する大きな影響は「家族」にあったのだなあと。
現在、私はプラハに在住して以来、12年経とうとしています。いつの間にかこんなに長くこの国で住んでいるのだなと。そして、来月で40歳!「四十路」ロードが始まります。
40歳という節目に合わせて、ウェブのリニューアルをしました。それに伴い、過去の「思い出」を拾いあげて書いていこうと思っています。
2019年3月27日 林 由未